二口フサエさん 84歳

はじめまして。

僕は、長崎県のほぼ中央に位置する東彼杵町という山と海に面する小さな町に、「地域おこし協力隊」として移住してきた堀越一孝(32歳)と申します。

地域おこし協力隊では、外から来た者の“気づき”をFacebookYouTube「東そのぎTV」などで発信することを活動の中心としています。

 

201312月までは、横浜や神戸でサラリーマンとして働きながら週末は郊外で写真を撮影し、画家のほりこしみき(妻)と共にHOMKというアートユニットで絵本を作ったり、個展をしたり、制作活動をしていました。

東日本大震災が起きた年の暮れに、滋賀県の高島市で行なったHOMKの個展で、今まで関わることが無かった地方に暮らす米農家や、ものづくり作家の方々と出会いました。

それ以降、米農家さんの暮らしを撮影取材させて頂いたり、共に遊んだりするうちに、地方に暮らす方々の生き方や人柄に感銘を受け、震災以降考えていた「本当に未来に欠かせないものは何なんだろう?豊かな暮らしとは何なんだろう?」という疑問がどんどんと大きくなり、2014年、安定した生活を思い切って手放し、家族で東彼杵町に暮らすことにしました。    

 

初めて迎える東彼杵町の夏。

関東や関西の太陽に比べ明らかに元気な九州の太陽。坊主頭がジリジリと攻め込まれ、逃げ込んだコンビニエンスストアの前で、気になる文字を町内案内板に見つけた。

 

『日ノ出写真館』

 

いつも通っている役場の近くに、写真館なんてあったかな?

役場に帰り、職場のおばちゃんに聞いてみると、「昔あったけど、今はもう廃業しとるよ」とのこと。    

 

写真館は、町民の節目を写真として記録する町の貴重な存在。きっと、写真館を営まれていた方なら、昔の東彼杵町の写真などをたくさん持っているかもしれない。是非見せてもらい、お話を聞いてみたい。

 

さっそくインターネットで見つけた日の出写真館の電話番号に連絡してみるも、使用されていなかった。

町の電話帳にも載っていないし、どうやって探そうかと、いきなり途方に暮れていると、職場のおばちゃんが「わたし連絡先知っとるよ」と。

 

「もう主人も亡くなりましたし、引っ越しの際、写真館に関するものは全て処分してしまいました。だから、何も話せません」

突然のお願いに、明らかに迷惑そうな声が返ってきた。

でも、諦めずに説得を続けると、「ちょっと探してみますので、こちらから連絡します」と探してもらえることになった。    

 

現在の日の出写真館があった場所
現在の日の出写真館があった場所

 

数日後、「少し写真が見つかりましたけど、いらっしゃいますか?」と、嬉しい連絡が入った。

 

今回お話を聞かせて頂いたのは、東彼杵町で唯一営まれていた写真館『日の出写真館』の奥様、二口フサヱさん。

 

 

電話での二口さんは、時折間を置かれて話し、ちょっと近寄り難い感じの人を想像させた。

それもあって、暑さと緊張に包まれた僕はお会いする前から汗だく。 

急な坂道を越え、電話で教えてもらった家の前に車を停める。庭では、猫がたくさん戯れていた。

 

大きな声で挨拶すると、とても小柄おばあちゃんがドアをゆっくりと開けてくれた。

玄関には、猫の餌やペットシート。

「この家で飼っているわけではないんですよ。この家は生き物禁止ですから」と話しながら、二口さんは古いアルバムと冷たいお茶を持ってきてくれ、僕は玄関に腰をかけた。

 

「電話でも言いましたけど、何も話せませんよ。

店主の主人は、今年が十三回忌でした。

そのアルバム、持っていかれて良いですから」

二口さんは、早く帰って欲しそうだったけれど、僕は、ちょっと乱暴に扱ったら破れてしまいそうな古いアルバムを丁寧にめくった。

中には家族写真や肖像写真、友人を撮ったと思われる数々の白黒写真。    

 

まず目についたのは、どこかで見たことあるような気がした高台からの風景写真。

「これ東彼杵町ですか?」とお聞きすると、「そうでしょうね。中心に見える工場のような建物。今は、彼杵中学校が建っていますよね」

言われてみると、山の稜線と道の感じが今と全く同じ。昔の東彼杵町はほとんど田園だったんだ。

 

「私は東彼杵町に来て約50年になりますが、私が来た頃はこのような感じで、辺りは一面田んぼでした。

ほら、日の出写真館も前の道が舗装されていないでしょ。でも、この頃は前に国鉄バスが通っていたんです」と、雪が積もる写真館前を写した写真を差し出してくれた。

隣の床屋さんや豆腐屋さんは今もある。でも、この写真には今よりもたくさんのお店が写っている。長崎街道沿いのこの通りは、当時賑わっていたそうだ。    

 

「こっちはフジカラーの看板があるからちょっと後の写真ですね。この頃は忙しかったですよ。白黒フイルムの時代は、毎日店内に20本、30本現像後のフイルムがぶら下がっているのが当たり前でしたから。」

当時の収入の多くは、近所にある結婚式場だったそうだ。

「結婚式では、一日中夫婦で撮影していましたね」と、日の出写真館の写真を見ながら、昔を思い出す二口さんは、自然と笑顔になってきた。

 

「でも、近くにハウステンボスができたでしょ。それに大きな結婚式場も。

それに、デジタルカメラが流行ってきて、役場からの仕事も無くなりました。

それまでは、勤労感謝の日などには議場で撮影したりしたものですが。デジタルカメラができてからは、みんな自分たちで撮るからとそれで、写真館は限界になってやめることにしたんです」    

  

日の出写真館店主 二口時夫さん
日の出写真館店主 二口時夫さん

 

そして、女学生時代の集合写真。    

「これは原爆直後の女学校時代の写真です。

私は長崎市の出身なので、女学校3年生の時、原子爆弾が投下された場所から3.4kmで被爆しました。

原爆前には2クラスあったのですが、10数名亡くなって、原爆後に集まったのはこれだけでした。

原爆当日、わたしは学徒隊として家を出た直後に、友人からその日の仕事が休みと聞いて家に帰りました。それで、玄関に入った瞬間にピカッて。

あのまま外にいたら、全身大火傷をしていたでしょうね」

 

二口さんは、長崎市で働かれている時、ご両親を原子病で亡くし、知人の紹介で顔も知らない東彼杵町のご主人の元に嫁ぐことになった。

二口フサヱさん
二口フサヱさん

 

 

写真館の一番の思い出を聞くと、昭和37年に起きた台風17号による大水害が恐ろしかったと、写真館の裏を流れる川の写真を見ながら話してくれた。

この大水害は、3時間の雨量が300ミリを超え、崖崩れや橋の流失、堤防の決壊など、被害総額は10億円近くに達した。

 

「これはもう堤防ができているけど、昔は竹やぶだったんですよ。ほら、これが同じ場所で撮った写真。私の子供たちは、こうやって裏の川で遊んでいました」

 

 

「大水害の時、お店の裏から水が流れ込んできて一階の暗室は水没。フイルムは全部駄目になってしまいました。

主人は、消防団から帰ってくると暗室をすぐに掃除して、水害を写した大量のフイルムを暗室内でパンを食べながら、ずっと現像していました」

大水害の記録資料には、たくさんの写真が載っている。

きっと、これらの写真は、当時ご主人が必死になって焼いた日の出写真館の写真なんだろう。

二口さんは、「怖かった」と一言もご主人に言う間もなく、お店の片付けとご主人のサポート。そして、同居していた年配のご両親と子供の世話。

壮絶な光景が目に浮かぶ。

 

東彼杵町教育委員会発行『東彼杵町ふるさとの思い出写真集』
東彼杵町教育委員会発行『東彼杵町ふるさとの思い出写真集』

 

「そういえば、嬉しそうに現像していた写真がありました」と、二口さんが見せてくれたのは、僕も見覚えのあるお顔。

現在の天皇・皇后両陛下の写真。    

「これは、主人に電話があって撮影に行っていました。長崎国体ですかね。こうやって呼ばれることもありました。こっちは東彼杵町にある県立千綿女子高等農学園に高松宮妃殿下がいらした時です。

これは何のカメラを使って撮ったのでしょうかね。

主人はカメラが好きで、お金があればカメラや機材に使っていました。でも、商売道具ですし、私は何も言えなくてね。

婚礼などは大きな中判カメラで撮影して、普段は違うカメラを使っていました。本当にたくさん持っていましたね」

ちょっと誇らしげに話してくれる二口さんは、初めて質問以外のことを自分から話してくれた。

 

「何も写真のことを知らずに嫁いできたから、本当に写真館をやっている時は大変でした」と話す二口さんだったけれど、集合写真に写るご主人を探す時に恥じらったり、子供たちの写真を、ご主人がこんな風に写していたと一生懸命説明してくれる時、当時の自分に戻ったかのように楽しそうだった。

二口さんと筆者
二口さんと筆者

写真は、記憶のスイッチになる。

二口さんと話す中で、そのことがよく分かった。

 

そして、写真を形として残していくことの大切さ。きっとアルバムとしてご主人が残していてくれていなかったら、こんなにたくさんのことを話してくれなかっただろうし、僕も理解できなかった。

 

 

二口さんは84歳で僕よりもだいぶ年上だけれど、“写真”という共通点があったからか、時間が経つにつれて「この写真は逆光ね~」とか「今フイルム高いでしょ?何枚撮り使っているの?」なんて同年代の写真仲間と変わらない話をできるようになった。

最初は「もう要らないから、持っていって処分してもらっても良いですよ」と言っていた二口さんだったけれど、アルバムをめくる度、目が優しくなっていった。

 

 

そして、不思議なことで、お話を聞いてから町内でよく二口さんにお会いするようになった。

 

役場や道端で会って「暑いね〜」と言葉を交わし、「新しくアルバム見つかったけど、見に来る?」なんて言ってくれるようになった。

まだカメラ目線の写真は撮らせてくれないけれど。

 

何より驚いたのは、日の出写真館前を撮っていたら、たまたま二口さんが歩いてきたこと。

いつか、カメラ目線の写真を撮らせてもらえるよう、この町の写真仲間として、仲良くしていきたい。